コパンのマヤ遺跡 | |||
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コパンのマヤ遺跡 |
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コパンのマヤ遺跡とは
コパンは、ホンジュラス西部にある古典期マヤの大都市。1980年にユネスコの世界遺産に登録された。
コパンのマヤ遺跡の王朝
コパンでは少なくとも16代の王が即している。
16代目の王の即位に際して製作された祭壇Qのレリーフでは、
各々の名前を示すマヤ文字の16人それぞれの王が刻まれている。
また側面のレリーフに17代目の王を刻んだ祭壇Lがあるが、
この祭壇は未完成であり、17代目の王が即位したかどうかは不明。
コパン王朝の歴史
モタグア川支流のコパン川に沿ったコパン谷では、B.C.1400年ごろから人類が集落を形成して居住していたことがわかっている。また、最近の研究では、このころに居住した人々はマヤ語系の言語を使用しない民族ではなかったかとの説もある。古典期の、いわゆるコパン王朝の前に先コパン王朝があったかどうかはわかっていない。
古典期のコパン王朝は A.D.435 年 (8.19.10.0.0) のキニチ・ヤシュ・クック・モ・チャン・ヨアートの即位に始まる。祭壇Qに描かれているこの王の姿は、彼がメキシコ高原の文化の強い影響下にあったことをしめしており、テオティワカンとなんらかの関係があった人物だと考えられている。当時、テオティワカンと関係が深かったティカルから送られた人物との説もある。
キニチ・ヤシュ・クック・モ・チャン・ヨアートの後に続く数人の王の業績はわかっていないことが多い。第7代の睡蓮ジャガーが現在グラン・プラサと呼ばれているコパンの中心部を現在の形に整えた。
古典期のコパンの文化が花を開くのは
A.D.695 年 (9.13.3.6.8) に即位した第 13 代の王ワシャック・ラフン・ウバク・カウィールの時代である。
この時代にコパンでは、他のマヤ地域には見られない高浮き彫りや丸彫りの技術が生み出され、
コパン独特の様式を持つ石像彫刻が多く作られる。
また、政治的にも絶頂期を迎え、数々の衛星都市を従えた大都市となる。
しかし、ワシャック・ラフン・ウバク・カウィールの統治期に衛星都市のひとつであったキリグアの反乱が発生する。
当時のキリグアの王カック・ティリウ・チャン・ヨアートは A.D.724 年(9.14.14.11.19)にワシャック・ラフン・ウバク・カウィールの後見の下で即位したことがキリグアの石碑Eに示されているが、カック・ティリウ・チャン・ヨアートの即位から
14 年後の 738 年にキリグアはコパンに対して反乱を起こし、コパンに勝利する。
このとき、ワシャック・ラフン・ウバク・カウィールはとらえられ斬首されたことがキリグアの石碑Jに言及されている。
当時のコパンはマヤ地域の超大国であり、一方、キリグアはコパンに従属する王国に過ぎなかったのだが、この反乱によりモタグア川流域の覇権はキリグアに移ってしまう。
この後、キリグアではコパンを模した造成がおこなわれ、またカック・ティリウ・チャン・ヨアートはコパンの紋章文字を用い、自らをコパンの第 14 代王と名乗り始める。このことからマヤの優越王-従属王の関係が絶対的なものではなく、従属王が優越王へとのし上がることができる流動的なものであったことがわかる。
神聖文字の階段近景
ワシャック・ラフン・ウバク・カウィールの斬首のあと、コパンは急速に衰え始める。
第 15 代の王カック・イピヤフ・チャン・カウィールは神聖文字の階段を建設しコパンの復興を試みるが、一見壮大なこの建造物も内部の詰め土は以前の建造物に比べると脆弱なものであることがわかっている。
また第 16 代の王ヤシュ・パッサフ・チャン・ヨアートは祭壇Qによりコパン王朝の正当性を表現するが、
この 16 代王が事実上コパン王朝の最後の王である。
A.D.822 年 (9.19.11.14.5) の祭壇Lには第 17 代の王ウキト・トークの即位が、祭壇Qと同じ図式で 16 代王から 17 代王に王権が渡される様子が表されているが、この石碑は直方体の1面しか彫刻されておらず、完成の前に王朝が崩壊したことを示している。
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