ポンペイ

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ポンペイとは
ポンペイ(ラテン語:Pompeii、イタリア語:Pompei)は、
1世紀までナポリ近郊にあった都市で、イタリアの世界遺産である。
79年のヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれた。
18世紀に発掘が開始され、現在は主要な部分が有料で一般公開されている。
末期はローマの属国となり、ローマ人の余暇地として栄えた。最盛期の人口は約2万人といわれる。噴火直後に当時のローマ皇帝ティトゥスはポンペイに使者を出すが、市は壊滅したあとだった。
市民の多くが火砕流発生前にローマなどに逃げたが、火砕流が発生した時に市内に残っていて助からなかった市民も多くいた。

軍人でもあった博物学者のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)は、ポンペイの市民を救助するために船で急行したが、煙(有毒火山ガス?)に巻かれて死んだことが甥のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)による当時の記述から知られている。



ポンペイの歴史
イタリア先住のオスキ人によって集落が形成された。
紀元前7世紀頃はサルノ川の河口付近の丘に集落があった。
その後紀元前526年からエトルリア人に占領されたが、ポンペイ市民はイタリア南部に居住していたギリシャ人と同盟を組み、紀元前474年クマエの海戦で支配から脱した。ギリシャ人はその後ナポリ湾を支配した。
紀元前5世紀後半からサムニウム人の侵攻が始まり、紀元前424年にはサムニウム人に征服されることとなった。サムニウム人はまた、カンパニア全体を支配した。この時代、ローマがポンペイを征服したという説があったが、現在この説を裏付けるものはない。

カンパニアの諸都市が同盟市戦争と呼ばれる戦争をローマに対して起こすと、ポンペイも反ローマ側に加わった。しかし紀元前89年、ルキウス・コルネリウス・スッラによって町は征服されポンペイは周辺のカンパニア諸都市とともにローマの植民都市となった。ローマの支配下に入った後のポンペイの正式名はColonia Cornelia Veneria Pompeianorum(ポンペイ人によるウェヌス女神に献呈されたコルネリウスの植民市)となった。ポンペイは港に届いたローマへの荷物を近くのアッピア街道に運ぶための重要な拠点となり、以後は商業都市として栄えた。




町の守護者は美と恋愛の女神ウェヌスであった。
娼婦の館などが発掘され、ここで男女の交わりを描いた壁画が多く出土したことから、
現代ではポンペイは快楽の都市とも呼ばれる。
ただし、この町は商業も盛んな港湾都市である一方で、火山噴火まではぶどうの産地であり、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることから、主な産業はワイン醸造だったことが伺える(現在はポンペイ周辺で火山活動の地殻変動によって陸地が上昇し、相対的に水位が下がっているが、当時は港もあり海洋都市でもあった)。
碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されていた。市の中心には広場もあり、かなり計画的に設計された都市であることも分かっている。また当時は性的におおらかな時代であり、ポンペイのような商業都市には商人向けの娼婦館のような施設は多かったという主張もある。

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