リドー運河

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リドー運河とは
リドー運河(英語:Rideau Canal、仏語:Canal Rideau)は、
リドー水路とも呼ばれ、カナダのオタワ川が流れるオタワ市とオンタリオ湖畔のキングストン市とを結ぶ運河である。
開通175周年にあたる2007年の第31回世界遺産委員会で、オンタリオ州最初のユネスコ世界遺産となった[1][2]。

リドー運河は、北米で最も古くから使われている運河で、1832年に開通して以来、現在でも使われている。リドー川やカタラクイ川のほか、いくつかの美しい湖を経由する。運河の運営・管理は、パークス・カナダ(カナダ公園管理局)によって行われており、国定史跡に指定されているリドー運河は歴史と自然の保護区になっている。カヌーや沿道のサイクリングなど、アクティビティも盛ん。


リドー運河の歴史
米英戦争の直後、イギリスの植民地であったアッパーカナダはアメリカ合衆国の軍事的な脅威に備えて、
アメリカの侵攻を阻止するための要塞と領土を守るための運河を数多く建設した。
そのうちのひとつがリドー運河で、当初はモントリオールとキングストンの区間を結ぶ物流輸送ルートを確保するのが目的であった。ニューヨーク州と接しているセントローレンス川は物資を供給するイギリスの輸送船が攻撃されたり、川を封鎖される危険があったため、川を迂回するルート(バイパス)として1826年から1832年の間にリドー運河は建設された。

モントリオールからオタワ川で西へ進むとオタワに行くことができ、
オタワから運河を経て南西に進むとオンタリオ湖畔のキングストンにたどり着くことができる。

米英戦争後、アメリカとカナダの間で起きた武力衝突はなく、
リドー運河は当初の目的で利用されたことは一度もない。

運河建設の指揮はイギリス工兵隊のジョン・バイ中佐のもとで行われた。
民間からは現場責任者としてジョン・レッドパスやトーマス・マッケイ、ニコル・テイラー・ヒュー・ベアードらが参加し、そして数千人のアイルランド人とフランス系カナダ人の労働者が建設に従事した。

建設期間中に亡くなった労働者の数は定かではなく、
一千人もの人々がマラリアやそのほかの病気、爆発などの事故によって亡くなった。
これに拍車をかけたのが、運河完成後の失業とケベックシティからアッパーカナダにまで広がったコレラの流行でさらに死者が出た。中にはアッパーカナダに親族がいなかったことから身元不明のまま亡くなった労働者もおり、墓標のない墓に葬られた。それでも多くの労働者は生き延び、この土地に入植して農場や木材貿易を営んだ。





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