ペルーのウルバンバ谷に沿う高い山に位置する、インカの遺跡 | |||
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マチュ・ピチュ (Machu Picchu) |
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マチュ・ピチュ(Machu Picchu)とは
マチュ・ピチュは、
ペルーのウルバンバ谷に沿う高い山の尾根(標高約6,750ft=2,057m)に位置する、
よく保存されたインカの遺跡。
「マチュ・ピチュ」はケチュア語で「老いた峰」を意味する。
山裾からはその存在を確認できず、
しばしば「空中都市」「空中の楼閣」「インカの失われた都市」などと呼ばれる。
この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。
遺跡の面積は約13km2で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。
熱帯山岳樹林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。
行政上クスコと同じ地域に属している。
現在ペルー国内では10ヶ所あるユネスコの世界遺産のうちでは
最初にクスコと同時(1983年)に指定された。
未だに解明されていない多くの謎がある遺跡でもある。
2007年7月、新・世界七不思議の一つに選ばれた。
マチュ・ピチュ(Machu Picchu)の発見について
イェール大学の歴史家であるハイラム・ビンガムは、1911年7月24日、
この地域の古いインカの道路を探検していた時、山の上に遺跡を発見した。
ビンガムは1915年までに3回の発掘を行った。
彼はマチュ・ピチュについて一連の書籍や論文を発表し、
最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになった。
この本は、ナショナル・ジオグラフィック誌 が
1913年4月号のすべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名になった。
また1930年の著書『マチュ・ピチュ:インカの要塞』は
廃墟の写真と地図が記載され説得力のある決定的な論文となった。
以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、
あるいは太陽の処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。
マチュ・ピチュとは間違えて付けられたといわれている説がある。
遺跡に名前は決まっておらず、ビンガムが地元民に遺跡の名前を尋ねたところ、
地元民は今立っている山の名前を聞かれたと思ってマチュ・ピチュと答えたことで
遺跡の名前がマチュ・ピチュであると間違って伝わった、という説である。
ビンガムはイェール大学の教職を辞してからコネチカット州の副知事、
知事を経て上院議員になったが、彼のインカ調査への影響力は死後40年近くも残っていた。
それは一つに彼の情熱的な文章のせいであった。
ただし最近になり、マチュ・ピチュはすでにペルー人が発見していたという説が浮上した。
それによると、クスコの農場主アグスティン・リサラガが、
ビンガムより9年早い1902年7月14日にマチュ・ピチュを発見していたという。
真偽のほどは今後検証されるであろうが、ビンガムの息子がその事実を述べられているということ、
またこの人物について複数の証言があることからも、事実である可能性は高い。
太陽の神殿のインティワタナ
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